公開日 2017年08月25日
ご出身は福島県の会津若松ですが、どんなお子様でしたか?
兼好 会津若松市内の下町で生まれ育ったのですが、ある意味子供らしい子供で、毎日外で遊び、勉強はせず(笑)。会津は剣道が盛んな土地柄なので、週に3日、剣道を習っていましたが、それ以外はとにかく遊んでいましたね。だから中学に入っても、部活動は剣道部で、さらに近所の道場でも剣道を習っているような日々で、ある程度強かった覚えがあります。ただ、会津の剣道は、とても綺麗な剣道なので、高校に入ると、他の地域の荒々しい剣道に押されて、勝てなくなるんですよ。それもあって、高校ではラグビー部に入りました。運動は好きで、割と足も速いし、運動神経も良かったんですよ。こう見えて(笑)。丁度、TVドラマの「スクールウォーズ」が再放送されていたりして、少し影響されたのかもしれません。
では、ドラマばりの熱血ラグビー部員だったのですか?
兼好 全然(笑)。「スクールウォーズ」ばりの不良……というか、ちょっと悪い感じに憧れてはいるけれど……って感じの奴らが集まっていただけなので、熱血には程遠かったですね(笑)。
母校は強かったんですか?
兼好 これまた全然(笑)。会津若松自体、ラグビー部は2校しかなくて、いきなり県大会(笑)。で、福島県は、浜(海沿い)のチームが強くて、もう県大会ではボロボロに負けて(笑)。120-0みたいなスコア、何度もありました(笑)。弱いせいか、怪我もたくさんしましたね。ある時、試合中にドーンとタックルをされたまでは覚えているのですが、次にふと気づいた時には“部室で麻雀をやっていた”ことがあります(笑)。その途中の記憶が全くない(笑)。「試合どうなったの?」と聞いても、とにかく、まるまる半日くらいの記憶がない(笑)。なのに麻雀してる(笑)。例えばね、次にどんな攻撃をするか、試合中にサインを出すんですが、相手が普通科や工業高校だったりすると、我が商業高校は「貸方!」「借方!」とか簿記用語を叫んで、相手を混乱させて喜んでいたり(笑)。それくらい、ダメダメなチームでしたね(笑)。
そして、大学は東京に進学されました。
兼好 福島で就職しようと思っていたのですが、なかなかうまく行かなくて。そうしたら、担任の先生が「お前は、割と国語が得意だけど、二松学舎大学なら国語だけで受験できるぞ」と教えて下さって。東京に行こうなんて、これっぽっちも思っていなかったので、その先生が仰らなければ、おそらくずっと福島にいたと思いますね。今でも田舎のほうが好きですし、山があると落ち着くんです(笑)。
その大学時代にも、まだ落語には出会われてないんですよね?
兼好 そうなんです。「笑点」も見てなかったし、時々、林家三平師匠をテレビで見かけたくらいで。サークルも漫画研究会でしたし(笑)、あとラグビーサークルにも入ってはいましたが、ここも結構ゆるゆるで、メンバーが足りなくて、試合の時は柔道部とかから助っ人を頼んだりしてましたね。「あの男がボールを持ったら倒してくれ」とだけ、お願いしたりして(笑)。で、やがて就職して紙問屋に勤めることになるのですが、割とすぐに結婚することになってしまいまして、いろいろあって転職し(笑)、神奈川県相模原市に引っ越して、タブロイド紙の編集をすることになったんです。いわゆる「地元のタウン誌」みたいなやつですね。そんなある日、焼肉屋さんに広告を取りに行ったら「広告は載せるけど、今度、立川談志師匠を呼んで落語会をやるから、その取材記事も載せてくれ」と言われて、その話を引き受けたことで、初めてちゃんと落語を聞いたんです。その落語会には、談志師匠のほか、瀧川鯉昇師匠なども出ていらっしゃって、会場はもちろん満員で、ドッカンドッカンうけていたのですが、私は記事は書いたけど、全然興味が沸かなくて(笑)。「早く原稿入れなきゃなあ」と、そればかり思ってた(笑)。だから、落語会の主催者の奥さんに「観たいって仰るお客さんをたくさん断ったのに、取材とはいえ、なんの興味も無い人に、席を用意して損した」と言われて(笑)。だから後に、そのご夫婦に、私が落語家になることを相談しに行ったときには、とてもビックリされていましたね。「あんなに落語に興味なさそうだった人が」って(笑)。で、その後、またまた事情があって、東京に戻ることになりまして、築地の魚河岸で働き始めたのですが、この魚河岸の仕事が、深夜2時に始まって正午頃に終わる仕事で。だから夜8時には寝るという生活だったのですが、正午に仕事が終わっても、飲み屋は開いてないし、どこか時間は潰せるところはないかなと思っていたら、「寄席というのがあるじゃないか」と(笑)。それで、自分から落語会に足を運ぶようになったんですね。特によく行ってたのは国立演芸場で、それが27〜28歳の頃です。自分ではよく覚えていないんですけど、嫁さんによると、その頃から図書館でよく落語のテープを借りてきていたと言っていたので、少しずつ落語を好きになっていたんでしょうね。
落語家になろうと具体的に思われたのは、その頃ですか?
兼好 まぁ、まずはとにかくね、魚河岸が辛すぎたので(笑)、ここを抜け出すためには、「そうだ、落語家になろう」と(笑)。先程何度か転職したと言いましたが、転職ってね、1回目はすごく緊張するんですけど、2回目からはすごく楽なんです(笑)。どんどん慣れちゃって。多分離婚もそうだと思うんですけど(笑)、踏ん張りが効かなくなるというか。だからその時も、どうしても落語家になるというよりかは、「新しい仕事を見つけたので、ちょっと転職をしよう」という感じで。だから、かみさんも、初めての転職が落語家だったら、話し合いとか、いろいろあったと思うんですけど、「今度は、落語家になるよ」って、「今夜も、魚河岸行ってくるよ」と変わんないトーンで言ったら「はいはい」って(笑)。「また職を変えるのね。今度は落語家なのね。」って感じで(笑)。で、とある師匠のところにお願いに行ったのですが、どうしても弟子入りが叶わず、それで落語家になることを一度は諦めたんですが、そうしているうちに、魚河岸にもだいぶ慣れてきて(笑)。でも、そんなある日、久しぶりに国立演芸場に落語を聞きに行ったら、やはり、落語家への思いが再び湧いてきて、そこで、先にお話した落語会の主催者の方に相談しに行ったら「三遊亭好楽師匠はどう?」と言われて。あぁそういえば、国立演芸場に聞きに行くたびに出演していて面白かったなあと思ったら、もう矢も盾もたまらなくなって、好楽師匠の家を探し始めて(笑)。で、オートバイに乗ってウロウロと「確か住所からすると、この辺だよなぁ」と思っていたら、なんと師匠が歩いていまして(笑)、もう急いでオートバイを降りて「弟子にして下さい!」と言ったら「ヘルメットを取れ」と(笑)。なんか慌ててて、ヘルメットを被ったままだったんですよ(笑)。もちろんフルフェイスじゃないですよ、帽子タイプのヘルメット(笑)、って、全然褒められた状態ではないですよね。脱帽もせずに「弟子にして下さい」って言ってるんですから(笑)。今から考えると、もう、どっと冷や汗が出ますね。でも、なんとかお話を聞いて頂けることを許されて、改めてご自宅にお邪魔したのですが、私の年齢のことや、女房子どもがいることなどから「難しいねぇ」と。で、今度は手紙をしたためさせていただいたら、「もう一度おいで」と言ってくださいまして、再びご自宅に伺ったら、師匠に「あなたはいいけど、かみさんはどう思ってるの?」と尋ねられて。「今、家にいるか?」と仰るので、「います」と答えたら、「電話番号は?」と聞かれて、その場ですぐ電話をされて。「お宅の旦那が噺家になりたいと言ってるけど、どうする?」。そしたらかみさんが「よろしくお願いします!」って(笑)。かみさんも急だったのでビックリしたみたいで(笑)。「本当にいいの?」「あっ、はい、本人がやりたいと言っていますので」。で、電話を切ったら、師匠が一言「軽いなぁ」と(笑)。
そして、無事入門が許されたわけですが、入ってみていかがでしたか?
兼好 とにかく、落語界のしきたりも厳しさも、何も知らずに飛び込んだので、大変といえば大変でしたが、その当時よりも、むしろ、今思い出して、冷や汗をかくことが多い(笑)。要するに全然わかっていないので、もう信じられないようなことを言ってしまってたりする訳です。例えば、見習いの身でありながら、師匠に「あの〜、家族がいるので、朝ごはんは自宅で食べたいのですが……。」と言ってみたり(笑)。もう今喋ってても、汗が3リットルぐらい出そう(笑)。でも師匠は優しくて「おう、家族だからな」と仰って下さったんですけど、本当は絶対にありえない話なんですよ。普通、弟子入りしたら、朝早くに師匠の家に行って、まずは掃除をしたりするのが当然ですからね。あぁ、また汗が3リットル出そう(笑)。
ほかにも、何か大きなしくじりをされたご記憶は?
兼好 うちの師匠は、何をしても怒らない人なんですが、2回だけ、ものすごく怒られたことがあります。一度目は、大師匠である先代の三遊亭円楽のお供をする仕事の際に、ほんの少し遅刻をしてしまった時でして「破門だ!」と激しく怒られました。そして2度目は、師匠のご自宅で、食事の後に、きちんとゴミを片付けていなかった時ですね。
「破門だ!」と言われたときは、どうされたんですか?
兼好 兄弟子(好楽師匠の一番弟子の三遊亭好太郎さん)にも間に入ってもらって、とにかく謝って、なんとか許されました。とにかく落語界のイロハも判っていなくて、どうにもならないと師匠も思ったんでしょう。入門して1、2ヶ月経った頃かな、兄弟子から色々と指導を受けることになりました。なんと兄弟子は、原稿用紙3枚くらいに「こうゆうことはしてはいけない」「こうゆう時はこうするべし」等々、ずらっと書いた紙まで作ってくださいました。おそらく師匠から「ちょっと、なんとかしてくれ」と頼まれたんでしょうけど(笑)。本当に、兄弟子には、お世話になりっぱなしで、頭が上がりません。
今、兼好師匠にもお弟子さんがいらっしゃいますね。
兼好 いや、だからほんとにね、今、まったく怒れない(笑)。もちろん小言は言いますよ、言いますけど、「俺、もっとひどかったな」と(笑)。“子を持って知る親の恩”ではないですが、今、弟子を育ててみて「ほんと、うちの師匠は嫌だったろうなぁ」と思いますね(笑)。よく耐えてくださったなあと。
好楽師匠の、お人柄なんでしょうね。
兼好 私が、何かしくじっている時でも、直接言うのではなく「俺なあ、昔、こんなしくじりをしてなあ、大先輩に怒られてさ」とか、あたかも自分のしくじり話のように話されるんですけど、そういう時は大概にして、私に、しくじりを気付かせようとしてのお話なんです。それに後から、ハッと気付くんですね。もちろんすべてがそうではなかったと思いますが、師匠の口をついて出る「しくじり話」は、私にとって有り難い話であることが多かったように思います。「再び、同じしくじりだけはしないように」と、背筋が伸びる瞬間でしたね。
落語は、入門してから覚えられたのでしょうか?
兼好 そうです。入門する前に話せた噺は全く無かったですね。我が一門は最初に「八九升(はっくしょう)」という小噺を習うのですが、ある日師匠に“稽古をしよう”と言われまして、師匠がその「八九升」を語ってくださったのですが、話し終わるやいなや「じゃあこれ覚えてね」と言われたので、「は?」と(笑)。落語というのは、“扇子をこう置いて、ここではこっちを向いて、ここではこんな仕草をして”と教えてもらうのかと思っていたら、いきなり全部喋られて、「じゃあ覚えてね」と。で、びっくりして固まっていたら、師匠が、「じゃあ、もう一回やるからね」と言われて。「とにかく覚えなきゃいけないんだな」と、全神経を集中させましたね。落語の世界の『三遍稽古』なんて言葉も知りませんでしたから、これからあと何回聞けるのかもわからないし、とにかく必死。で、その日はそれで終わって、次の日、もう一回やっていただいたのですが、火事場の馬鹿力というか、ものすごく集中していたのか、なんとか覚えられたんですよ。で、3日目に、師匠に「やってみろ」と言われて。もうとにかく必死に喋りました。で、なんとか喋り終えたら、その後に師匠が、もう一度やってくださったんです。それが本当に面白くて。喋り終えたことで、私の極度の緊張も、少しだけ解けていたんでしょうね。師匠はそれまでも同じように話してくださっていたのだけれど、4回目でようやく、師匠の語りの面白さや素晴らしさに気付く余裕ができた。そんな稽古の日々を覚えています。
初高座のことは覚えていらっしゃいますか?
兼好 ある時、兄弟子の落語会の手伝いに出かけたら、兄弟子のところに師匠から連絡があって「今日出してやれ」と。急にです。ところが私、まさか高座に上がると思っていなかったから、その日、着物の下に丸首のTシャツを着ていて、仕方無くそのひどい様子のまま、高座に上がったんです。どうやらアンケートにも「あれはなんだ」とか書かれてたみたいで(笑)。そしたら、その話を聞いた師匠が、私にこう仰ったんです。「お客さんには、前座でも、二ツ目でも、真打でも、全く関係ないからね。前座だからできないとか、前座だからこれがありませんとか、前座だから足袋が汚いですとか、全く関係ないからね」と。「お客さんには言い訳できないんだよ」と。いつどんな時でも、落語家であることを忘れるなということですよね。有難く、肝に命じました。で、まぁ、その高座のことは全く覚えていません(笑)。とにかく、あっという間に終わった。と言うか、普段稽古をしていた時は7分〜8分くらいで喋っていた噺なのに、どうやら、4分くらいで下りてきたみたいで(笑)。どんだけ早口で喋ったんだろうと(笑)。お客さんも呆気に取られただろうなあと思いますね。それから、うちの師匠には15席くらい稽古をつけてもらいましたかね。さらに師匠は、落語会の楽屋で、「今度入ったんだけど、あの噺、教えてやってくれないかな」と、いろんな師匠に声をかけて下さったんです。本当にありがたかったですね。
前座修行はいかがでしたか?
兼好 うちの母親が“お能”を演っていたので、実家には着物が多く、羽織や袴を畳むのは割と素養もあったのですが、太鼓とかが全く駄目で(笑)。音楽的才能ゼロというか(笑)。もちろん懸命に練習をして、必死で叩いてるんですが、先輩から、「上がりにくいんだよ!」と、よく怒られました(笑)。ただその時も、師匠に言っていただいたのは、「上手に叩けなくても仕方ないけど、太鼓の傍から逃げることはするなよ。“ちょっと叩いて”と言われた時に叩けないと、太鼓の傍にいるのが怖くなって遠ざかってしまう。でも、太鼓の傍にいるということは、いろいろな先輩の高座の傍にいるということで、勉強になるんだからな」と。ここぞという時に、自分の為だぞと言ってくださったのは、本当にありがたかったですね。
奥さんやお子様を抱えての前座時代は、大変ではなかったですか?
兼好 どうしてたんですかね〜(笑)。貯金もそれほど無かったし。日本は良い国だな〜(笑)。そういえば前座の頃、師匠のおかみさんがね、「いっぱい野菜を貰ったんだけど、食べきれないし、腐らすといけないから、持ってきな」と、よく野菜をくださったんですよ。今思うとね、そんなにいつも、余るほど野菜を貰うわけがない(笑)。丁度4人分くらいのカレーの材料が余るわけがない(笑)。師匠と、師匠のおかみさんには、本当に感謝しています。まぁ、私は自分の好きなことをして、噺家生活もどんどん楽しくなっていったんですが、うちのかみさんは、いろいろやりくりもして大変だったろうなぁと思います。いつの間にか着物も縫えるようになってましたから(笑)。「反物で買うと安いのよ」とか言ってましたね(笑)。かみさんは、まさか将来、自分の旦那が落語家になるなんて思いもせずに結婚したわけで、だから「落語家の私」と一緒になったわけではないので、落語家としての私の地位とかランクとか、そういうことに全く関心がなくて。とにかく“この人が今やっていることが、あまり苦しそうでなければ大丈夫”という感じで接してくれていますので、私にとってはありがたいです。誰とは言えませんが、ある先輩のおかみさんが元々落語ファンの方で、その先輩が家で稽古をしていたら、急に襖が開いて「小三治師匠はそうやってなかったわよ」と仰ったそうで(笑)。まあ人それぞれではありますが、私は、ちょっと無理だなぁと(笑)。気が休まらないなぁと(笑)。
そして、二ツ目になられました。その時のお気持ちは?
兼好 実は、前座の頃から師匠に、「お前は遅く入った(入門した)のだから、かなり先の方を見ないと駄目だよ。目標として、真打を目指していたんじゃあ駄目だよ。真打になって数年後にどうしているかということを、前座の今から考えてないと駄目だよ」と言われていたんですね。だから普通だったら、「二ツ目になったら、師匠の世話をしなくてもよくなって嬉しかった」という人が多いと思うんですが、私は、二ツ目どころじゃなくて、“真打の数年後”のことばかり考えていましたから。前座から開放された嬉しさよりも、「師匠のお供をして毎日勉強できたのに、それができなくなってしまう」という思いのほうが強かったですね。
その頃「真打の数年後」を、どのように見据えていらっしゃったのでしょうか?
兼好 前座時代にね、自分は、うちの師匠のようにはなれないと強く思ったんです。うちの師匠ってね、根っからの落語家なんです。もう人間が落語家なんですよ。だからきっと、師匠は落語家以外はできないんですよ。でも私の場合、もしかしたらまたサラリーマンに戻れてしまう人間だなあと。師匠に接すれば接するほど、そう思いまして。そんな自分が、真打の数年後に、他の落語家には無いものを持つとしたら、どれは何だろうと、随分考えましたね。例えば10年後、15年後、20年後、落語界には誰がいて、誰が中心になっていて、自分はどのあたりにいて……とか考えた結果、「明るい高座を目指そう」と思ったんです。なんとなくですが、そこを目指している方が少ないような気がして。ですから、努めて明るい高座を心がけて、日々精進してきたつもりです。
そして、真打になられました。
兼好 そう、だから真打になっても、自分としてはまだ先を見てはいたのですが、まずはともかく、かみさんに、「落語家として、一区切りついたよ」って報告できるなと思いましたね。そして、家族とか実家とか親戚とか、やはり真打になると、周りが認めてくれるというか、安心してくれたのは嬉しかったですね。
真打になられてから、さらに活躍されている兼好師匠ですが、三鷹では毎年春に、桃月庵白酒師匠との二人会をお願いしてきました。
兼好 ほんと、星のホールっていいホールですよね。お世辞抜きでそう思います。250席ですか?会場のサイズが程良くて、演るほうも演りやすいし、聴くのにも、丁度いいんじゃないかな。それに、三鷹のお客様って、笑ってくださるところは大いに笑ってくださるし、きちんと聞いてくださるところは聞いてくださる。ありがたいですね。
そして、この秋、満を持しての独演会です。
兼好 独演会ということで、時間もたっぷりありますし、いろんな噺を、自分らしく、じっくりと丁寧にやれたらと思います。ぜひ、楽しんで帰ってください。お待ちしております。
少しだけ、落語以外の質問となりますが、お休みの日は何をなさっていますか?
兼好 基本的にインドアな人間で、用が無い時は、あまり出歩くのは好きではないのですが、絵が好きなので、美術館に行くことは多いですね。もうどんな作風の絵でも見ますし、最近は特に、浮世絵の奥深さに興味が湧いているのですが、一番困るのはね、固有名詞を覚えるのが苦手で(笑)。特にカタカナが(笑)。だから、せっかくの感動を誰かに伝えたいのに「誰の何という作品が良かったか」を言うことができない(笑)。「ほら、こんな感じの」って、絵に描くことはできるんですが、固有名詞が全く出てこない(笑)。困ったものです。
師匠は、絵もお上手ですから、ご自分でもお描きになるのでは?
兼好 落書きならたくさんありますよ(笑)。私の部屋中、落書きだらけ(笑)。だからいつも自分の落書きに囲まれて稽古してます(笑)。
験担ぎとかもされますか?
兼好 弟子が入る前は、“この手拭いを使ったらウケたからずっと使う”とか、“ウケなかったら違うのに替える”とかはしてましたけど、今は弟子が出の直前に渡すので、「これかあ……。この間これ使った時、ウケなかったんだよなぁ」とか思いながらも「まあいいや」って(笑)。だから、あまり験担ぎはしなくなりましたね。
これから、どういう落語家を目指されますか?
兼好 最近思っているのは、「三遊亭兼好としては64歳までにしよう」と。なんとなくですが、私が心技体ともに充実して喋れるのは64歳くらいまでのような気がしているんです。そこまでは技術的にも向上していけるし、心も充実していくし、ギトギトしたものも少しずつ消えていって、いい感じで枯れてもくるだろうし、64歳あたりが、ひとつの境界線かなあと。だからそこまでは「三遊亭兼好」として、力の限り頑張ろうと思っているのだけれど、そこを越えたら、もうガラッと違った落語家になってみたくて(笑)。もう名前も変えてね(笑)、隠居名みたいにして、好き勝手に落語を喋りたい(笑)。何も考えず、自分が思うがまま、わがままに喋って「あれって、兼好さんだよね?」と、客席をざわつかせたい(笑)。今はね、仕事って思いも強くありますし、お客さんに楽しんでもらえるように、当然のことながら、準備もして、稽古もして高座に上がらせてもらっています。でもね(笑)、64歳を過ぎたらね、もう好き勝手(笑)。なんかこっそり小さな小屋で「ひとり会」を開いて、思うがままに落語を喋ったり、弟子の落語会に急に現れて、一席めちゃくちゃ喋って「師匠!困ります!」とか言われてみたい(笑)。迷惑な人になりたい(笑)。
ということは、師匠の落語は、64歳を過ぎてもずっと聴けるということですね。
兼好 そんな私でよければですが(笑)。64歳までの私と、64歳を過ぎてからの私、どちらも楽しみにしていてください(笑)。頑張ります(笑)。
本日はありがとうございました。
2017年6月9日 三鷹市芸術文化センターにてインタビュー
(インタビュアー:当財団演劇企画員 森元隆樹)
「三遊亭兼好 独演会」公演ページは、こちらをご覧ください。
☞ https://mitaka-sportsandculture.or.jp/geibun/star/event/20171123/