《インタビュー》吉井瑞穂(オーボエ)

公開日 2022年09月08日

《インタビュー》吉井瑞穂(オーボエ)

音楽の中にも「対話」「コミュニケーション」をとても大切にされるオーボエ奏者の吉井瑞穂さん。
今回は、クラシック音楽との出会いからオーボエを手に持つまでの道のり、ドイツで生活した25年間とこれからの演奏活動の展開についてのお話を交えながら、風のホールでようやく実現となるリサイタルについてまで語っていただきました。

クラシック音楽との出会い

オーボエを始める前に、ピアノを5歳で始めていました。音楽家になるため、幼い頃から専門の教育を受けていたように思われがちですが、習い事や体操教室に行くようなノリで、近所にある桐朋学園大学「子どものための音楽教室」に通っていました。お教室には、ヴァイオリンやピアノで桐朋の音大に行きたい! という方ばかり。当時、同い年で現在も活躍されている東京都交響楽団(第二ヴァイオリン首席奏者)の遠藤香奈子さんや、クァルテット・エクセルシオ(第一ヴァイオリン奏者)の西野ゆかさんなどがいらっしゃいました。

 

中学生の時に、一人でオペラを聴きに行かれたと伺いました。

ミラノのスカラ座が来日した時、演目もよく知らずに神奈川県民ホールでの公演に一人で行ったんです。取りあえずクラシックのコンサートに行ってみたい、と思っていた時期でした。

もともとピアニストのアルトゥール・ルービンシュタインさんの大ファンだったんです。恐らく12歳の頃だったと思いますが、NHKの教育テレビで、彼の人生をたどる特集を偶然見ていてファンになりました。ものすごい感銘を受けたんですね。ちょうどCDが出始めた年代とも重なっていたので、ルービンシュタインさんのCDをお小遣いで買い集めてずっと聴いていました。

彼に何か特別なものを感じたんですよね。芸術家というのはこういう人のことを言うのか、と。一つのものにフォーカスし、人生を賭けて一対一で向かい合っていく姿勢と、アナログの時代の良さみたいなもの。それらが如実に出ていたんです。子ども心に、何もないところから何かを作り出すモノづくりやクリエーション-例えばショパンの作品には楽譜がありますけれども-何もないところから音を出し、それを曲にして人前で弾いて、という創造性に感銘を受けたんだと思います。すごく感動したんですよね、彼の生き方に。その後、伝記などを読み始めてから-もちろん聖人ではないから色々なことがあるわけですが-彼の人間らしい側面にも惹かれて。以来、ずっと彼のファンです。

 

「竹刀」から「オーボエ」へ?!

オーボエとの出会いは中学生になってからですか?

中学に上がったので新しい習い事でもやってみたいな、というのがきっかけでした。吹奏楽部かオーケストラで始める方が多いので、珍しいかもしれませんね。でも、当時本当にやりたかったのは、剣道だったんですよ(笑)。

 

手に持つものが変わったわけですね(笑)。

確かに似てますよね(笑)。覚えているのは、材木座か七里ヶ浜の方の道場に見学に行ったら、先生も生徒も見事に全員男子だったんですよ(笑)。100人くらいいる男子の中に、たった1人の女子。もうこれはダメだ、と(笑)。女子校に行っていたので、やはりそういう免疫はない。これはちょっとやっていけないなあと思ってやめました(笑)。

その後も色々な遍歴がありました。チェッカーズの大ファンだったので、ドラムやサクソフォンにも興味を持っていたのですが、家族からうるさいからやめなさい、ご近所に迷惑がかかるからと言われては諦め…そのように転々としながら、最終的にオーボエにたどり着いたんです。

 

どなたから先生をご紹介されましたか?

当時師事していたピアノの先生の娘さんが芸高(東京藝術大学附属高等学校)に通われていて、その方から鎌倉在住の井口博之先生という素晴らしい先生をご紹介いただきました。井口先生は、読売日本交響楽団設立当初からの首席オーボエ奏者でした。思春期だということもあり、人間的に素晴らしい方に習うのが人間形成の面でも良いだろう、ということで、井口先生にお会いしました。オーボエは持ち運びも簡単みたいだし、やってみようかなと思ったのですが、実は私を含めて家族の中にオーボエがどんな楽器なのかを知っている者が誰もいなかったんです(笑)。先生のご自宅に初めて伺った時、恐らく音が鳴りやすいようにリードが仕込まれていたと思うんですが、音が鳴りまして。二度目に伺った時には、既に自分の楽器が用意されていたという(笑)。楽器を買い与えてくれた両親には感謝しています。

 

「偶然」の積み重なりから歩み始めた、音楽家の道へ

《インタビュー》吉井瑞穂(オーボエ)
©Marco Borggreve

私には「偶然に」ということが結構多いので、これはオーボエをしていいよと神様から言われているのかな、と思うようになりました。中高一貫の地元の女子校に通っておりまして、高校に上がる時に受験を見据えてのクラス分けが行われていて、当初は音大への進学を考えていませんでした。ところが、ルービンシュタインさんがきっかけで音楽がとても好きになってしまったので、音大の受験を考えるようになったんです。

中学最後の春休みに、「京都フランス音楽アカデミー」(1990年より開催)に偶然参加することになりました。周りはお兄さんお姉さんばかり。とても刺激を受けました。「こんな世界もあるんだ…(音楽が)好きだからやってみよう!」と思いまして、高校は「音楽クラス」に進むことにしました。もともと音楽クラスのある学校ではなかったのですが、たまたま音大を受ける人が多かったことから、学校が特別に作ってくださったんです。いわゆるその・・・勉強しなくていいよという・・・(笑)。

 

選択科目が少なくていいよという・・・(笑)

1年生の時は普通の学科の勉強をしっかりさせられましたが(笑)、3年生の時は週2回とか3回とか、ほとんど学校に行っていなかったですね。3年間でやることをすべて1年生でやり終えてしまったので、ずっと家で好きなことをしてよいという恵まれた環境でした。もともと中学時代に目指していたのは、音大とは違う大学でした。これもまた導かれたというか・・・。

 

ちなみにどの学部を目指していらっしゃったんですか?

経済学部です。中学生の頃、世界の経済がどのように回っていくのかということに興味があったんです。通貨が発生した時期のことや経済の流通の仕方について、多くの疑問を持っていました。世界史の先生がとても素晴らしい先生で、質問するたびに必ず答えてくださり、「吉井さん、もし興味があるのなら、経済学部に進むといいよ」と仰ったからです。

 

吉井さんは、音楽を通じて社会と繋がりたい、貢献したいという思いから鎌倉で音楽祭を主催されました。十代で既に、経済の観点からもご自身と社会との繋がりを意識していらっしゃったのですね。

経済の流通基盤となるものは一体何なのだろう?と、沸々とそう思っていました。単純に面白かったんだと思います。結局はお金持ちになって城を建てて偉くなり、たくさんの領土を自分のものにする。そして戦争が起きて崩れていく。今もその繰り返しなんだなと。子どもの頃からカトリックの信者だったので、キリスト教の歴史や世界観も見てきましたので、世界史を勉強しても、流れてくるニュースを見ても同じ歴史の繰り返しだ、と気付いたんです。

 

確かにそうですね。

その中に通貨という存在がある。経済と人間社会の繋がりを、その流れ方はいつの世も同じなのかな、と思うようになりました。どうしてこういう流れ方をするのかという理由と栄枯盛衰、これらはもう全部ルーティンになっている、と。それを学びたかったんでしょうね。そうすると今度は社会心理学などその他の学問に分岐していくと思うんですけれども。とはいえ、音楽をしていると、今もそうですが、オーボエ奏者ってリードを作っていると一日があっという間に終わっちゃうんですよ。もう他に何もすることができないくらい、リードを作るのにかなりの時間を割かなければなりません。オーボエ奏者にたくさんのことを一度に求められると大変きついですね(笑)。

私は教育のほとんどを西洋で受けてきました。そのため、ドイツが東西に分かれていた時代のドイツに生まれたり、社会主義の頃の東欧諸国に生まれたりした同級生や同僚から色々な話を聞いてきました。当時の東ドイツやハンガリーなど、東欧諸国から逃げてきたという人たちの話に耳を傾けながら、生きた世界史を肌で感じ、音楽を通して世界史を学んできたように思います。音楽が大好きなのでもちろん音楽が自分の中心にあるとはいえ、音楽を通して世界を見させてもらってるという感覚は常にありました。音楽の道に進んでいなかったら、異なるビジネスの世界に携わっていたかもしれません。

 

高校生でオーボエの道に進むことを決めて藝大(東京藝術大学)に入学されると間もなく、ドイツのカールスルーエに留学されました。

2年生に上がる前でしたので、藝大には結局10カ月しかいなかったです。

 

留学を決めたきっかけをお聞かせください。

高校生になると、毎年、草津の音楽祭(草津夏期国際音楽アカデミー&フェスティバル)に行っていました。将来は外国に住んでみたかったんですよね。行き先はアメリカでもヨーロッパでもよく、留学して日本を客観的に見てみたかった。1回外に出てみたかったんです。

この音楽祭で知り合ったトーマス・インデアミューレ先生は、当時、ドイツのカールスルーエ音楽大学の教授になられて間もない若い先生でした。ドイツには、彼のクラスの他にもいわゆる名門クラスがたくさんあり、周りの方も勧めてくださいましたが、私がインデアミューレ先生に惹かれたのは、英語がよくわからない私たちに易しい言葉で難しいことを説明できる、頭脳明晰で面白い方だったからです。難しいことを難しい言葉で説明するのは、申し訳ないけれども恐らく誰にでもできる。けれども、なるべくたくさんの人に易しい限られたボキャブラリーでシンプルに説明するって実はものすごく難しい。演奏も脂の乗り切った感じでお上手でいらっしゃるし、ぜひこの先生に習ってみたい、そう思ったんです。それで、学部からカールスルーエ音大に行きたいと思うようになりました。

先生にお伝えすると、「それならなるべく早く来た方がいいね。でも、コネクションとかもあると思うから、藝大には入っておいたほうがいいと思うよ」と仰ってくださり、その通りに従った感じです。「私、今年受けます!」みたいな感じでした(笑)。その後、ドイツ語を学ぶために青山にある日本のゲーテ・インスティトゥートに申し込み、フランクフルトのゲーテに翌年の3月に入学しました。

 

思い立ったら即行動、流石の行動力ですね。好機到来、と実感されたのでしょう。

ある意味導かれたのかなあ・・・。2年待つよりも1年、1年と2年って変わらないんです、あちらからすると。それだったら若いうちが絶対にいい、と思いました。

 

カールスルーエの音大での日々はいかがでしたか?

学部の授業はすべてドイツ語で進んでいきます。大学院に比べると、当時は学部生に外国人がそれほど多くなくて、内容はちんぷんかんぷんでした。しかし、皆さんとても優しくて、愛がありましたね。ドイツ語で何を言われているのかわからないけれども、とにかく大学に行く。毎日それでげっそり疲れる。1、2年生の頃は練習もままならずでしたが、いい意味でのストレスがありました。環境に慣れるのに精いっぱいでした。

 

現地の語学学校でしばらく学んだ後に大学に入学される方もいらっしゃいますが、吉井さんは語学学校と並行して音大に通われていたのでしょうか。

ゲーテには4カ月通ったのですが、文法はできても実践で言われることを理解して自分の言葉で返すというのがなかなかできない。言われていることがまだわからない。なんとか生活はできているけれども・・・という状態でしたが、またそれも醍醐味という。恵まれた環境であった所から、誰一人知り合いのいない国へスーツケース1個でポンっと一人で飛び出していきましたからね。よく生きてたなあ(笑)。当時、携帯電話はなかったし。でもすごく楽しかったと思います。充実していました。本当に勉強していました。

 

カールスルーエ音大を首席で卒業されると、ドイツでのオーケストラ経験を積み重ねていかれました。

状況はこれから恐らく変わってくると思うのですが、オーボエ奏者の場合、ソリストになるのは選択肢としてあまり大きなテンプレートがありません。そのため、オーケストラ奏者になる選択をするのですが、当時は今のようにインターネットがなく、情報が私たちのところまで全然届かなかったんですね。カールスルーエが田舎だったからかもしれませんが。そんな時、偶然、ベルリンに引っ越した元ルームメイトが、カラヤン・アカデミーのオーディションのことを教えてくれました。席が一つ空いたよ、と。それも、以前から習いたいと思っていた、若くて現役で吹いているアルブレヒト・マイヤー先生の席が空くと言われて、「やったあ!チャンスだ!」と思い、試験を受けに行きました。ちょうど学部が終わり卒業するというタイミングで契約が始まったのは、有り難かったですね。
*ヘルベルト・フォン・カラヤンが1972年にベルリン・フィルの団員養成を目的として創設したオーケストラ・アカデミー

 

大編成のオーケストラと室内オーケストラ

ドイツでは、さまざまなオーケストラに呼んでいただきました。契約で1年半ほど居させていただいた楽団もあり、色々なことを経験させていただきました。しかし、ベルリン・フィルで実習した時もそうでしたが、私は少人数のアンサンブルの方が好きかもしれない、と思うようになったんです。大勢の人数の中で演奏するよりも、小さめのグループがいいな、と。

 

何かきっかけがおありだったのでしょうか?

ある日、(アメリカの)オルフェウス室内管弦楽団の演奏をコンサートか録音で聴いたのがきっかけでした。すごく感銘を受けたんです。大きなレストランではなく、例えるならばビストロで食べる感じです。コックさんの顔がちゃんと席から見える、そういう感じのお店です。大きなレストランですと、今は見えるように作っていらっしゃるお店もありますが、厨房が見えないですよね。それよりも小さなビストロのような食堂だと、ちゃんと厨房が見える・・・そういう安心感があるというか。レストランに例えるならば、そういう感じです。どちらかといえば、私には小ぶりの方が合っているなと思っていました。

もちろん1万人のホールで吹くことは全く問題なくできますが、そこまでたくさんの人と常にいる必要はないかもしれない、と感じていました。電車でたくさんの人と常に共に行動するのは、どちらかというと私には違うかもしれない。

そのように思い始めた頃、マーラー・チェンバー・オーケストラのオーディションが行われることを知りました。マーラー・チェンバーはもともとマーラー・ユース・オーケストラから作られたので、EUの人ばかり。外国人は採用してこなかったんです。恐らく私は、いや、確実に最初のEU外のメンバーであり、オーディションで受かった初代のメンバーです。そういうこともあり、所属するオーケストラではなかなかビザが下りなくて、とても苦労しました。最終的に永住ビザは下りたのですが、それまではシュトゥットガルト(国立歌劇場管弦楽団)に行くなど転々としていました。マーラー・チェンバーに腰を据えた後も色々なオーケストラに呼んでいただき、良い経験をさせていただきましたが、大きなオーケストラも好きだけれども、心の片隅には「室内オーケストラが好き」という思いがあったように思います。

 

室内オケといえば、それぞれのパートやセクションが繰り広げる「音楽のお喋り」が醍醐味ですし、聴いていてもとても楽しいですよね。

その通りです。100人から成るオーケストラだと、もちろん覚えればよいのですが、全員の名前を知らなかったりすることもあり、挨拶もできないわけです。3、40人だったら、皆にハローって言えるし、表情もわかる。(故クラウディオ・アバドが再興したスイスの)ルツェルン祝祭管弦楽団も素晴らしい経験で、本当にハッピーでラッキーだったのですが、一番奥に座っている人のお顔が見えないなあ、遠いなあ(笑)。一年に一度のお祭りのオーケストラなのですが、これがいつもの状態だと結構キツイなあ。やはり私は、誰と一緒に舞台に乗って演奏しているのかがわかる方がいいな、と思ったんです。対面でしっかりと目が合う距離のグループが好きだとずっと思っていたのが、現実としてあって。

 

吉井さんはNHK交響楽団をはじめとする国内の大編成のオーケストラとの協演や客演をなさっていますが、どの演奏からもメンバーとの音の対話を常に大切にしていらっしゃるのが伝わります。大編成のオーケストラも元をたどれば室内楽に行き当たりますが、楽器を通してより密な対話をしていきたいとなると、ご自身には室内オーケストラが・・・

そうですね、やはり小さなオーケストラが好きなんだと思います。うちのオーケストラも少々太っちょサイズになって、レパートリー的に大編成でないとできない作品やオペラなどを数多く演奏してきました。それはそれでとても楽しかったのですが、日常使いとなると・・・人によって全然違いますが、私は小さめのオーケストラの方がよいかな、と。以前からそうかもしれないなとは思っていたのですが、それに気付いたのは40歳前後でしょうか。

 

ドイツから日本-故郷の鎌倉へ

マーラー・チェンバー・オーケストラに首席奏者として在席しつつ、ご家族と共に鎌倉に拠点を移されました。

そうですね。2017年の3月に帰国しました。

 

鎌倉をベースに世界各国で演奏活動をなさるライフスタイルは、とてもアクティブで新鮮、ユニークでいらっしゃいますが、大変なこともおありだと思います。そのような暮らし方を選択されたのは?

子どもを日本で育てたかったというのもありますが、鎌倉が大好きなので、いつかは帰りたいと思っていたんですね。私は今「還元する時期」に来たのかもしれない、と思える出来事もあり、自分が受けたヨーロッパでの体験を、愛する母国でシェアしていけたらと思うようになりました。実は、教えることがもともと大好きなんです。ヨーロッパでもマスタークラスや生徒さんたちを教える機会がありましたし、教えることは私にとって趣味のようなものなので、日本でも教えられたらいいなと考えていました。

パンデミック前は、「今はどこに住んでも一緒だな」とフットワーク軽く、そう思っていました。飛行機に乗るので少々時間はかかるとはいえ、ヨーロッパとは半日くらいしか変わりません。半日もあれば着いてしまう。アフリカの近くにあるスペインのグラン・カナリア諸島に住む同僚がいるのですが、例えばベルリンで仕事があると、ヘルシンキ経由で日本に戻る私の方が彼よりも早く、翌日には自宅に着いてしまう(笑)。そんなこともあったので、これは日本に住めるな、と思ったんです。

あとは、これはもう私の潜在的、本能的な勘というか・・・鎌倉で散歩をしていると、インスピレーションを得るのですが、ある日、風なのか木なのかわかりませんが、「帰っておいでよ」と言われたような気がしたんです。ところが、少しの間その声に抵抗していたら、体の調子が悪くなりまして・・・。帰ると決めたら調子が良くなったんです。

ドイツには25年住みましたけれども、そこでのお役目といったら仰々しいのですが、「この国での人生の課題のようなものは果たしたから、次は母国の日本から何かを発信しよう」、自分なりの小さなことですが、「与えられたお役目のようなものを発信できたら」と思いました。拠点になる場所、軸になるポールを挿す部分がポンっと変わっただけで、やっていることは恐らくこれまでとほぼ変わらないと思いますが、全てのその要素がちょうど一つになった時期というのがあって、「今でしょ?」と思ったんですよね。

イギリス人の主人も「あ、いいよ」みたいな感じで(笑)。日本語は言葉も難しいし、色々大変ですが家族3人で、わあっと移住しました。そうあるべきだと決まっていると、物事が動きやすくなるのかもしれません。ドイツでは、家を引き払うのが普通は難しいことなんですけれども、そっくりそのまま全部スプーンから洗剤から何から何まで全部引き取ってくれる人が見つかったんですよ。ありえないでしょう?!

 

ありえない(笑)。

家具など全部引き取ってくれたので、そのまま置いていったんですよ。ピアノはいらないからと言われても、すぐに買い手が見つかって。

 

そういうことってあるんですね。

普通はないです。ドイツに25年間住んで11回引っ越してるので、難しいことも承知してました。

 

台所のシンクなども全部取ってくれって言われますよね?

全部そのまま。友人というか知人のその彼は独身で、ずっと間借りをしていた人でした。どこにでも住める人で、好きな国にビザをすぐもらえるという不思議な立場の人で。アメリカにもすぐ住めたという、ありえないことが普通な人でしたので。どこにでも住めるけれども、自分の持ち物が欲しいと思っていたので、そのような家を探していたと。彼は家によく遊びに来ていたとはいえ、ありえないような本当の話です。でも、そういう時って、止まっていた物事があるべき方向にスムーズに流れるのだなと思い、驚きました。これはやはり「帰っていいよ」ということなのか、と。

 

体調も良くなったし。

ドイツはちょっと寒かったんです。冬がとても厳しいんですよ。夏はどちらかといえば涼しいけれども、一年中寒い。それに比べると、鎌倉はトロピカルなので(笑)。さらに、昨年の夏頃に「次の段階に行っていいよ」と言われた気がしました。8月まではマーラー・チェンバーのメンバーですが、卒業して次に行くのが良いのでは?と感じたんです。すると、そういう風にしたくなる事柄が続いて起きました。次の段階に行くために、もちろんドイツでもやろうと思えばやることもまだたくさんありますし、コロナが収束したら来てほしいと言ってくださる団体もあるのですが、そこはそこでとっておいて、今までやってきていない分野-例えば社会と連携し、音楽が必要とされる場所に出向いて、現在は音楽と繋がりのない方たちと対話し始めて何かを構築していくというのがすごく大事だと思っています。

これまで私は舞台から5000人、1万人という大変大きな人数を対象として演奏をしてきました。これからもインターネットを通してそういう風になっていくかもしれませんが、まずは目の前にいる方たちとの一対一の関係、それが10人や20人かもしれないし、200人や500人のホールかもしれませんが、一対一の対話ができたらいいなと思っています。それがリサイタルだったりとか、小さい室内楽だったりすると、私はそのツールはとても使いやすいし、伝えやすいのです。オーケストラの中でソロを吹いて皆とお話しをするというのもやり方次第ですが、なるべくリサイタルや室内楽でソロを奏でて、音楽を通してお客様にお話しをするというのがこれからのステージなのかなと思っています。もちろんアンサンブルも積極的にやっていきます。

 

吉井さんが日本に拠点を移されたので、ファンの方々にとっては演奏に触れる機会が増えて、皆さんとてもお喜びでしょう。

嬉しいです。そういう機会をいただけるというのはとても有り難いです。

 

お昼のコンサートに贈る「濃い」プログラム

今回のプログラムについてお話をお聞かせください。

今回のプログラムは、なんというかものすごく「濃い」んです。お昼のコンサートなので、良い意味でライトな感じにもできるのですが、コロナになって夜に出かけない方が増えたじゃないですか。出かけても、日が落ちたら家に帰るという方が意外にも多くて…。東京の様子はわかりませんが、午後2時や3時の公演でも実は夜とあまり変わらないのではないか?と思いました。もちろん、アフターコンサートをゆったり楽しむこともできる時間帯であるわけですが、このような現状の今だからこそ、本格的なプログラムにしたかったんです。

オーボエのソロ作品はレパートリーが少ないのですが、いわゆる名曲と呼ばれる作品、オーボエの神髄を突くような曲を並べると、聴いてくださる方々の中でストーリーができる、と考えました。聴いてくださる皆さんが思い思いに感じたことが、コンサートのストーリーになればと。

出来上がったプログラムは結構濃くて(笑)、どちらかというと、玄人好みな選曲かもしれません。特に最後の曲(パヴェル・ハース:オーボエとピアノのための組曲op.17)はきついし、涙が出るような、体を縛られるような悲しい曲なのですが、まさに今そういう音楽が必要なのではないかと確信したんです。もっと心が温まる、癒されるような曲を選ぶ方がよかったのだろうか、と思いつつプログラムを考えていたら、ロシアによるウクライナ侵攻が起こったので…あ、そういうことか、と。

今回選んだ作品は、一筋縄ではいかない時代を生き抜いてきた人たちの人間模様や歴史背景、アナログの時代の良さなどが伝わる曲ばかりだと思います。対面で香りが立ち上ってくるような芸術というのは重要です。だからこそ、カメラやインターネットを通してではなく、その場でダイレクトに感じることができる内容の作品を揃えてみたいと思いました。風のホールは音響も素晴らしいので、このプログラムはぴったりだと思うよ、と皆さんが仰いますので、このようなプログラムに決めさせていただきました。

 

前半はシューマンが1849年に書いたロマンティックな2作品が続きます。1曲目は「アダージョとアレグロ」、2曲目はシューマンが妻クララへのクリスマス・プレゼントとして贈った「3つのロマンス」です。後者の第2曲が2021年1月にヴァイオリニストのイザベル・ファウストさんとピアニストのアレクサンドル・メルニコフさんのデュオで演奏されましたので、三鷹公演にご来場されたお客様には記憶に新しい作品かもしれません。

羨ましいです。というのもこの作品、実はオーボエで演奏するのは苦しいんです。お休みがなくメロディをずっと吹いているので(笑)。その苦しい極限からくるエネルギーのようなものがあって、ふわっと吹くだけではなくて…。しかし、「ロマンス」はそれが醍醐味ですね。第2楽章は本当に天国と繋がっているなあと思います。

 

これらの美しくも繊細な作品には、幸せでありながらもどこか寂しげな陰を感じます。

シューマンの最期を考えると、とても切ない気持ちになりますね。

 

後半で演奏されるヒンデミットやハースの作品の背景と、ロシアによるウクライナ侵攻で苦しめられている人々がいるという現状は重なるものがありますね。

《インタビュー》吉井瑞穂(オーボエ)

国境を越えたら顔や形、言葉が変わってしまう広大な大陸の中で起こる人と人とのいさかい。これらは歴史上で何回も何回も繰り返されています。でも、その中で必ず生まれる音楽だったり芸術だったりがあるわけです。それらが何を神髄として本当は伝えたかったのか、苦しさを伝えてるのか、それとももっと100年後へのメッセージなのか、ということとも考えたりします。もしかしたら作曲者自身にはそんな精神的余裕はなかったかもしれませんが、言葉ではないもので表現をした時に、芸術家は今この時を考えるだけではなく未来に向けての、自分はいないけれども、もしいたとしたら何を聴きたいかな、というところまでもしかしたら潜在的に考えていたのかな、と。もし生きていたら次世代に何を伝えたいのか、もしかしたらこういうことを言っているのではないか?とピンとくる瞬間があります。

ヒンデミットの作品もそうですが、演奏しているとピリピリ感じるところが随所にあるんです。恐らく和声の分析をしていくと明らかになると思うのですが。演奏していると、シグナルや暗号のように感じる所があります。学術的観点からではありませんが、言葉では表せない何かのようなものが伝わればと思います。例えば今のような(世界の)状況や、この10年20年で起こっていることには、言葉にできないものがたくさんあるように思えますし、これらも最終的にはインスピレーションや愛であったり思いやりであったり、気持ちに繋がっていくのではないか、と。それらが聴いてくださる方々にも、暗号みたいな感じで伝わるといいなあ。私の想い、その曲が伝えたかったものが届くといいなと思うんです。もちろん聴いてくださった方が、言葉にしないで感じたものを自由に受け取ってくださって構いません。言語化するのは、脳を働かせる意味でもとても重要なことだと思いますが、やはり、最終的にハートに届くかどうかというのは重要なポイントだと考えます。

少々重いプログラムとはいえ、最終的に行き着くところは天国であったり、神の世界だったりするわけです。光があってそういう課題-作曲家の題材があったりとかする。大元はそこなので。悲しいだけではなく、そこに帰っていく-そういう観点から演奏ができればいいなと思います。彼らは何かを伝えたくて、元の心地の良い何も問題のない光の世界へ帰っていくわけですよね、天国に。その大元が見える2時間になればと思います。演奏するには大変体力を要するので、今から頑張って筋トレはしますけれども(笑)。本当に体力勝負のプログラムなので(笑)。

音楽をする原動力となるものはそこなのです。もし、そこからずれてしまうと-これは別のお題ですけれども、多分、芸術も苦しくなってくると思うんですよね。苦しみを表現しても最後に到達したいゴールがきちんと見えていると、苦しい課題であっても、最後に光が見えると思うんですよね。そういうものを持っている作品を取り上げたいと思いました。

 

レシェティツキはもともとピアニストで、ツェルニーの先生でしたね。

この曲は、知られざる名曲を探すエキスパートのような方からご紹介いただきました。レシェティツキの作品は恐らく日本初演になると思いますが、とてもいい曲で、オペラのような感じです。他にも良い曲がたくさんあるのですが、せっかくいいホールで演奏できるのであればこの曲かな、と。結果として、私がオーボエを吹き続ける限り、人生を賭けて向かい合っていきたいと思う作品ばかりが集まりました。

 

それぞれの作曲家の人生に思いをはせつつ、自らの人生を振り返り、この先を考えるきっかけとなるようなプログラムをご提案いただいたような気がします。

ありがとうございます。どうぞ、気楽に来てください。聴きに来てくださった方にとって、その時一番必要な2時間になれば嬉しいです。自分が心地よい音で、楽譜に書かれていることに忠実に、それを音にしてお届けするのが仲介者としての演奏家の役目です。それができるといいなと思います。

 

お客様には、オーボエを介して吉井さんの歌、吉井さんの声に耳を傾けていただく・・・

そのように言っていただくのはとても嬉しいです。人生は結構短いので、その中の2時間でお客様が、体や気持ちが楽になったと少しでも思ってくだされば、私はそれで大満足です。私たちのできることはそのくらいですから。演奏するのは苦しくて大変で緊張することもありますが、結局は好きなことをやっているので、とても楽しいのです。自分が本当に楽しいと思うそのエネルギーを皆さんとシェアできたら一番です。それが我々芸術家の役目だと思います。

 

共演のピアニスト、岡純子さんについて

今回は、ヨーロッパの名だたる巨匠たちから共演を請われる名手、岡純子さんとの共演ですね。

岡さんは、私がジュネーブにいた頃からの知り合いです。今はパリに住んでいらして、本当に素晴らしいピアニストです。このコンサートのためにお声掛けしたら、「やります」と引き受けてくださいました。8月の「浜松国際管楽器アカデミー」も偶然が重なって、岡さんにご出演いただけることになりました。10月の公演が決まってから色々な公演がピタピタと…。

 

パズルが当てはまる、という感じですね。

そうなんです。そうあるべきかのごとくピタッピタッと。10月2日は、岡さんも私も「晴れ女」なので、きっと晴れると思います。本当に楽しみにしています!

 

2022年6月
インタビュー・構成、写真:大塚真実(当財団 音楽企画員)
協力:株式会社Eアーツカンパニー、鎌倉ギャラリー

 

 

吉井瑞穂 オーボエ・リサイタル
©Marco Borggreve